百万年の船

はじめは宇宙人とのファーストコンタクトについて私の理科の知識を総動員して超真面目に空想しています。その後、空想の幅が広がりました。

宗教とは「信じる事」だから「信じない人」を差別し区別し悲劇を起こす

 般若心経は「般若波羅蜜多」(全てが「空」であることを悟る最高の知恵)を得られれば「阿耨多羅三藐三菩提」(悟りの境地)に至ることができる。つまり、この世の真理を理解することができれば仏になれると言っています。般若心経には神も仏も天国も地獄も出てきません。それなのになぜこれが宗教なのでしょうか。この世の真理が人を悟りに導くものだから良いことであると最初から決めていて、それを信じなさいと言っているからです。この世の真理が良いことか悪いことか迷いながら朝晩 般若心経を唱えている私はとんでもない罰当たりです。

 「信じること」を強要するのが宗教だと思います。

 キリスト教イスラム教などユダヤ人が発明した唯一神を崇拝する宗教はこの点でとてもわかりやすい。モーセ十戒の第1項は「他の神を敬ってはならない」です。従って、唯一神を信じない人は仲間ではない、さらに人間ではないとされてしまいます。信じないと殺されるかもしれません。ここまで神が絶対的な存在になると神が善か悪かなど考える必要もありません。 

 この図はAI ChatGPTが描いた「十戒」の絵です。

 十戒を表現した絵

 ジョン レノンのイマジンは Imagine there's no heaven で始まります。No hell below us と続きます。おそらくこの歌は敬虔なキリスト教徒には受け入れ難かったと思われます。ほとんどの日本人は英語の意味が分からず分かろうともせず、また宗教を真剣に考えようとしません。結婚式は教会で葬式はお寺でやることに何の不思議も感じません。ほとんどの日本人はこの歌を平和を訴える美しい歌と受け取ったでしょう。実際は欧米の精神世界を根底から覆そうとする歌でした。しかし、彼が歌うFreeとLoveへの思いはやはりそれらを信じる事であり宗教だと思います。実は私はFreeもLoveもよくわかっていません。

 私は神がいてもいなくても私には関係ないという立場です。私と言う存在は私と世界との関係のこと、つまり私と世界との無限ループ、と考えればいろいろなことが説明できると思っています。私が死んでもこの無限ループは残ります。幽体離脱はこれで説明できます。ごくまれに強い意志を持つ私がいたとすれば、ループを長時間維持できるかもしれません。それが霊魂です。霊魂は物質ではなく関係性です。エネルギーもありません。だから見えるはずがないのです。ただ見るだけの存在として空間を漂う、それが死後の私だと想像しています。普通は肉体が無ければこの関係性を維持することは難しいのでやがて私は世界の中に溶け込んで消えていくのではないかと考えています。死後の私は天国でも地獄でも無くこの宇宙に溶け込んでいくのです。

般若心経の中ほどの以下の文章に私は死後の世界のイメージを感じます。

 無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明神 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道

目に見える世界も無く、内面の意識の世界も無い(空の中には)無明は無く、無明が尽きることも無い(空の中には)老死は無く、老死が尽きることも無い(空の中には)苦集滅道(四聖諦 ししょうたい)も無い