百万年の船

はじめは宇宙人とのファーストコンタクトについて私の理科の知識を総動員して超真面目に空想しています。その後、空想の幅が広がりました。

良いエロスと悪いエロス

 またまたAVの話である。

 最近のAV女優はきれいな人が多い。顔だけではなく体もきれいでなければならないのでハードルは高い。こんなきれいな人が何でこんなことをやっているのだと思うことはよくある。

 そんなきれいな人に乱暴を働くAVが多くあり、しかもそれを好んで購入する人が多くいる。潜在的に乱暴したいのだが実行はできないのでそれをAVで見るということなのだろう。AVを見ることで欲望を満たせば実行することはないのか。逆にAVによって欲望を触発されてしまうことはないのか。

 アメリカはAV大国であるが、暴力で女性に行為を強制するものは違法だそうで、強姦物AVは存在しない。これも一つのやり方だと思う。

 行政は秘部にモザイクをかけることを強制している。もろに見えると欲望を触発するからだという理由である。これは逆効果だと思う。隠した方がいやらしいことはモザイクに限らずよくあることである。ピッタリした衣類は全裸よりもエロい。スポーツ選手がエロい目で見られるのは嫌だと言うが、あんな格好をエロい目で見るのは健康な男子なら当然である。

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 媚薬を題材にしたAVがある。薬で女性を麻痺させて合意無き行為を行う。実際に行えば犯罪である。また、催眠術で女性を自由にするAVもある。催眠術のことはよくわからないが、テレビで見る限りかかりやすい女性ならばありうると思う。催眠術で欲望を解放しただけだと主張すれば、ひょっとしたら犯罪ではないかもしれない。しかし、合意無き行為は犯罪である。このようなAVがモザイクをかけたから合法であるとして流通してしまう。規制のかけ方がおかしいと思う。

  モザイクにこだわるよりも「合意無き性行為は犯罪」であり表現の自由の例外とすべきと思う。

 性的欲求は健全である。しかし、その欲求を満たすためには相手方の合意を得ると言う途方もなくメンドクサイ過程が必要である。そのメンドクサイ過程は人と人と関係性の中でもっとも難度が高い。普通の近所づきあいや仕事上の付き合いさえ苦労する人にとって性交を達成するまでの過程は途方もなく難しい。しかし、この面倒な過程を暴力や薬や金で省略するのは悪である。

 多少脱線するが、この尺度には不倫は無関係である。一夫多妻や通い婚に見られるように男女の関係は文化によって変化する。一夫一妻は絶対的な基準ではない。

 合意無き性行為は犯罪である。AVのような仮想空間においてもこの原則は曲げないで欲しい。

 

宗教とは「信じる事」だから「信じない人」を差別し区別し悲劇を起こす

 般若心経は「般若波羅蜜多」(全てが「空」であることを悟る最高の知恵)を得られれば「阿耨多羅三藐三菩提」(悟りの境地)に至ることができる。つまり、この世の真理を理解することができれば仏になれると言っています。般若心経には神も仏も天国も地獄も出てきません。それなのになぜこれが宗教なのでしょうか。この世の真理が人を悟りに導くものだから良いことであると最初から決めていて、それを信じなさいと言っているからです。この世の真理が良いことか悪いことか迷いながら朝晩 般若心経を唱えている私はとんでもない罰当たりです。

 「信じること」を強要するのが宗教だと思います。

 キリスト教イスラム教などユダヤ人が発明した唯一神を崇拝する宗教はこの点でとてもわかりやすい。モーセ十戒の第1項は「他の神を敬ってはならない」です。従って、唯一神を信じない人は仲間ではない、さらに人間ではないとされてしまいます。信じないと殺されるかもしれません。ここまで神が絶対的な存在になると神が善か悪かなど考える必要もありません。 

 この図はAI ChatGPTが描いた「十戒」の絵です。

 十戒を表現した絵

 ジョン レノンのイマジンは Imagine there's no heaven で始まります。No hell below us と続きます。おそらくこの歌は敬虔なキリスト教徒には受け入れ難かったと思われます。ほとんどの日本人は英語の意味が分からず分かろうともせず、また宗教を真剣に考えようとしません。結婚式は教会で葬式はお寺でやることに何の不思議も感じません。ほとんどの日本人はこの歌を平和を訴える美しい歌と受け取ったでしょう。実際は欧米の精神世界を根底から覆そうとする歌でした。しかし、彼が歌うFreeとLoveへの思いはやはりそれらを信じる事であり宗教だと思います。実は私はFreeもLoveもよくわかっていません。

 私は神がいてもいなくても私には関係ないという立場です。私と言う存在は私と世界との関係のこと、つまり私と世界との無限ループ、と考えればいろいろなことが説明できると思っています。私が死んでもこの無限ループは残ります。幽体離脱はこれで説明できます。ごくまれに強い意志を持つ私がいたとすれば、ループを長時間維持できるかもしれません。それが霊魂です。霊魂は物質ではなく関係性です。エネルギーもありません。だから見えるはずがないのです。ただ見るだけの存在として空間を漂う、それが死後の私だと想像しています。普通は肉体が無ければこの関係性を維持することは難しいのでやがて私は世界の中に溶け込んで消えていくのではないかと考えています。死後の私は天国でも地獄でも無くこの宇宙に溶け込んでいくのです。

般若心経の中ほどの以下の文章に私は死後の世界のイメージを感じます。

 無眼界乃至無意識界、無無明亦無無明神 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道

目に見える世界も無く、内面の意識の世界も無い(空の中には)無明は無く、無明が尽きることも無い(空の中には)老死は無く、老死が尽きることも無い(空の中には)苦集滅道(四聖諦 ししょうたい)も無い

ミクロを集めるとマクロになるのか 第2回

 聖武天皇は飢饉対策として大仏を建造した。

 現代の人々は食糧が不足しているのなら食糧を増産すればよいと考えるはずです。しかし、古代の指導者は大仏を建造し仏に祈ったのです。同様に古代イギリス人は食料危機への対策としてストーンヘンジを作ったと言われています。巨大な建造物を作るほどの知能を持った人々が危機に対してびっくりするほど見当はずれな対処法を行ったということです。

 古代人の無知を笑うのは簡単です。我々が考えるべきことは、我々も同じような見当はずれをしていないか、思い込みをできるだけ排除して考えることだと思います。

 この絵はBing AIが描いた大仏とストーンヘンジです。

 経済成長が無条件に良いことだと ”今は” みんな思っていますが

 古代では大仏建造やストーンヘンジが民を救うことだと本気で考えられていました。現代にはそのような見当外れは本当にないのでしょうか。

 ひょっとしたら経済成長信仰、GNP拡大信仰を疑ってみる必要があると思います。この信仰の根源はブルーハーツの名曲「夢」の「あれも欲しい、これも欲しい、もっと欲しい、もっともっと欲しい」に尽きます。要するに欲望です。

 日本の人口は減少します。世界を見渡しても人口が減少している国はだくさんあります。人口が減少するとGNPは減少します。一人一人がすごく働いてすごく金持ちになればGNPは増加するのでしょうが、たぶんそうはならないでしょう。その時 日本はもうおしまいだと考えていいのでしょうか。

 GNP拡大信仰が現代の大仏建立かもしれません。人口が減少してもGNPを拡大しなければならぬとしたら相当な無理をすることになります。固定観念を捨てられる指導者たちがどれだけいるか。それで国の将来が決まると思います。

 これはBing AIが描いた「大仏と経済成長」です。

大仏と経済成長の絵

 人口の減少は人類という生物の防御本能かもしれない。

 化石エネルギーの枯渇、地球温暖化による気象変動と海面上昇、暗雲が先に見えています。ほとんどの人はそれをしっかり見ようとしません。しかし、モヤッとした不安として誰もが持っていて、それが子供を産まないことの隠れた心理的要因になっているのではないでしょうか。人口が減少すれば化石燃料の消費も減り、地球温暖化も止まるでしょう。そのことを誰も口には出さないけど、誰もが心の奥底で考え続けているとすれば、それが人類という生物種の本能ではないでしょうか。

 

 人口が減少しても、経済が縮小しても、一人一人が幸せであれば良い。

 人は金持ちになることを目指しているのではなく、幸せになることを目指していて金持ちになることはその手段の一つにすぎません。同様に国は良い国になることを目指すべきで、強い国、大きな国になることはその手段にすぎないはずです。

ミクロを集めるとマクロになるのか 第1回

景気とは何だろう

 景気が気分の問題だとしたら、世の中の経営者は何といういい加減なことを基準に判断しているのだろう。

 某証券会社の年頭オンラインセミナーを見たら、その証券会社の偉い人が「ウサギ年の特徴は株価が跳ねることです。」と堂々と言っていた。前回のウサギ年は12年前でした。12年前に起きたことが今年再現される根拠はなんでしょう?これだから株屋はうさん臭いイメージがつきまとうのです。

 余談ですが、AI(Bing)に「ウサギがぴょんぴょんはねる図が欲しい」とリクエストしたら下の図が送られてきました。

ウサギがぴょんぴょんはねる。画像 3/4

個々と全体

 農業は斜陽産業のイメージですが。斜陽とか新興とかに分類分けすること自体が不適当だと思います。なぜなら農業は食料を生産する産業であり、食料は人類の生存に必須ですから、農業は滅びてはいけないのです。こう言うと何か悲壮感とか義務感が漂ってきますが、実際に元気のよい農家と会ってみると、そんな悲壮感はありません。彼らが持つ農業機械の総額は2千万円以上しますし(この高価格は問題ありですが)、自家用車がBMW325だったりします。(小さいけれど立派に高級車です。)つまりミクロで見るとそんなに悪くない事例がたくさんあります。ところがマクロでみると農業人口も耕地面積も減少傾向なので農業と言う産業は下降線で表現されてしまいます。

 ミクロを積み重ねるとマクロになります。一つや二つのミクロ事例でもってマクロを語ってはいけないと思います。しかし、一つ二つのミクロ事例は事実なのですから無視してはいけないと思います。時々 何が真実だかわからなくなるのはこんなことが理由だと思っています。

 

マクロ経済学に「国」と言う言葉がたくさん出てくる不思議

 デフレ脱却を目指してたくさんの政策を打ち出した日銀の方々はマクロ経済学のプロだそうです。ところがその政策と結果が微妙にズレました。確かに新型コロナとウクライナ戦争は彼らにとって不幸な想定外だったでしょう。しかし、私は簡単な疑問を持ちました。デフレ脱却とは人工インフレを引き起こし、それによって物価を上げることです。しかし、日本の物価が上がれば「人々は外国から安い品物を買ってこようとする」はずです。つまり、日本の国内だけで経済は完結していないのです。

 おそらく海外との関係は為替というファクターとして経済学に反映されるのでしょう。しかし、そればかりではないような気がします。 

 「国」と言う単位を飛び越えた地球規模の「グローバル・マクロ経済学」のような考え方が必要になると思います。そんなこと既にやっていると言われる方々も多いと思いますが、論説は相変わらず「国」が単位です。

 

 なぜ今はインフレだと言わないのだろう

  現在の日本ではインフレが進んでいます。このことは政府と日銀が望んでいた事態だと思います。なぜなら貨幣価値が下落すれば政府が抱えている借金の価値も下落するからです。しかし、彼らはそれを発言することはないでしょう。なぜなら、自民党政権の基盤は高齢者・年金生活者であり、貨幣価値の下落は年金の価値下落に直結するので、高齢者・年金生活者には不都合です。自民党政権は自らの支持基盤の人々に不都合な政策を堂々と行っているのですから、それを明らかにはしたくないのです。

 

 お金をたくさん使う人が偉くなる世界

 政治家でも官僚でも予算をたくさん取ってくる人、予算をたくさん使う人が優秀だと言われます。もちろん予算を取ってきて使うには理屈を考えなければなりません。お金をたくさん使うためにうまい理屈を考えられる人が優秀と評価されるのです。

 アベノミクスはこの政治家と官僚の文化をとことん活用しました。補助金を大量にばらまき、その財源として国債を大量に発行し、そのほとんどを日銀に買わせました。国債を日銀が買うということは、日銀がお金を刷って政府に渡しているのと同じことです。流通するお金の量が増えるのですからお金の価値が下がりインフレになります。それを彼らは「デフレ脱却」と言いました。

  野党は独自の経済政策がありません。お金をたくさんばらまきたいという意味において与党と野党の経済政策は同じなのです。だから野党は与党のあら探し、上げ足取りしかできません。しかし、財政再建と減税を主張する人など選挙には勝てないだろうなあ。なぜなら、選挙に行く人は日本人の50%前後ですが、その人々の中にはばらまいたお金の恩恵を受けている人が多いからです。

 

 時間が逆戻りしている

 John Lennonは「Imagine there's no country」(国家など無いと想像してご覧)と歌いました。あの頃は本当に、遠い未来になるでしょうが、いずれ地球に国境は無くなるだろうと思っていました。今はプーチンをはじめとする各国の指導者は国境を強固にし、さらに国境を拡大することに熱量を注いでいます。まずいことに各国の国民はそれを支持しています。

 Chat AIに国境のない世界の絵を描かせたら下のような絵をかいてきました。国境のない世界のイメージ

密やかな女神たち

  誰にも迷惑をかけない隠れたお楽しみの話です。この手の好みは本当に多種多様で、なんでこんなものに興奮するのか共感できないものが半分以上あります。しかし、それが好きな方もいるわけです。

(「エウロパの略奪」美女エウロパを大神ゼウスが牛に化けて連れ去るギリシャ神話)

 それでは女神たちのご紹介です。

第1位 沢村杏子 1990年頃に出演していました。激しい行為にも耐える骨太な体つきでした。乳房はそれほど大きくありません。いやらしいことなどしそうにない、その辺にいる少しきれいなお姉さんでした。ところが、いったんスイッチが入ると、喘ぐ、のけぞる、もだえると演技=艶技はすさまじい。彼女の出演作はそれほど多くなく、代表作は航空会社でパイロットをやっている恋人にスチュワーデスの制服を借りてこさせて、それを着て恋人と絡む話(題名は忘れました)、恋人および恋人の先輩とそれぞれ熱く行う女子大生の話(これも題名忘れました)、妻が他人と絡んでいるところを見ないと興奮しない夫のために他人を誘惑する人妻の話。(題名は「なめこ汁」だったか?)本当に激しいのでお体に障るのでないかと余計な心配をしていました。お元気でおられるのでしょうか。

第2位 三浦恵理子 最初は「初撮り人妻」で初々しくデビューしたが、そのうちプロらしくなって、男優とバトルを繰り広げるようになりました。艶技は超一流。姿形もお美しい。私が好きなのは「人妻ハイレグ羞恥」です。まさにモザイクを逆手に取った着衣物の極致で、光沢のあるレオタードを身に着けて男優に抱かれます。

第3位 円城ひとみ きれいなおばさんです。艶技は超一流。代表作は「母の友人」。友人の子から求愛された円城は、彼の求めに応じて看護婦の制服に着替えて彼の望みをかなえます。まさに女神です。

第4位 川上奈々美 当初は美少女としてデビューしましたが、今はきれいな熟女さんです。細い体に小さいけどきれいな乳房、それにかわいいお顔が乗っています。演技力は素晴らしく、いやいや犯されながら、次第に男に引かれていくなどという難しい役を見事に演じます。従って、そのような難しい役ばかりやらされている感じがあります。私が好きなのは初期の美少女時代の「濃密」物です。本当に愛し合っているのではないかと勘違いさせるように演技します。

第5位 姫野愛 USAから発行されていることになっているメディアに出演されていました。日本国外なのでモザイクはありません。最初は驚きましたが、今の基準で見ると作品の質は劣るかもしれません。目鼻立ちのくっきりした美人なので、街の中でもかなり目立つと思います。代表作はロスアンジェルスまで行って黒人を相手にする作品です。細い体でしっかり受け入れるので心配してしまいました。今頃どうしておられるのでしょう。

 

 このカテゴリーはそもそもマイナーですが、以下はそのマイナーな中でも「知る人ぞ知る」女神たちです。

第6位 新尾きり子 そんなに美人でもないし巨乳でもない。私が注目するのは行為の途中の表情です。ひょっとしたら本気かもしれません。作品数は多くありません。場末の映画館の名女優です。

第7位 柳田和美 太ったおばさんです。しかし、ちゃんとウエストは残っていますし、お肌がきれい。お顔もかわいい。若い男優に激しく攻められ、白いふわふわの体を波打たせながら小さな声で「ホントにイク」とうめくところはなかなかの名場面です。その名作は「おばさん家政婦」です。タイシボウ バンザイ。

第8位 Chloe 1990年頃 アメリカのポルノ映画に出演していた黒髪の小柄な白人です。洋ピン物のほとんどはゴリラのような筋肉男とホルスタインのような巨乳女がただただピストン運動するだけでいくら激しくても面白くない。しかし、このChloeという女優は病的なほど快楽を求めてのめりこむように絡みます。Chloe Nicholsという名前らしいが確証はありません。洋ピンの中では異質な女優さんでした。

 

 ほとんど昭和の話になってしまいました。現代の女優さんはきれいな人が多いと思います。しかし、最初の刷り込みが効いてしまうので、やっぱりこの頃の方々の印象が強く残っています。

 皆様お元気で暮らしておられればうれしいです。

 

 

音楽を聞いて泣けるか?

 父は亡くなる前 85歳くらいから高い音が聞こえなくなり、それ以来音楽を聞くことをやめてしまいました。私もそうなるかもしれないので、今のうちに書き留めておきます。

私は音楽を聞いて涙を流したことが何回かあります。

第1位 モーツァルト作曲 「レクイエム」

 高校生の頃だったと思います。レコードはカール・ベーム指揮 ウィーン フィルの演奏のものです。これを聞いて大泣きしてからモーツァルトにはまりました。しかし、このレコードに針を落とすことは滅多にありません。また泣けるかどうか自信が無いからです。

 40代の最後の頃 海外出張先のフランクフルトで一人で週末を過ごすことになりました。ドイツ人からフランクフルト市内は治安が悪いので一人では出歩かない方が良いと言われていましたので、空港近くのホテルに泊まり、空港から出ている列車でマインツの街に出かけて見物がてら教会に入ったところ、雨が降り出して出られなくなりました。その時 オーケストラと合唱団が入ってきて、その夜行う演奏会のリハーサルが始まりました。本場の生演奏が聴ける良い機会だったので、そのままベンチに座っていました。曲はモーツァルトのレクイエムでした。リハーサルなので止まったり戻ったりします。それを暗い教会に中で私は涙を流しながら聞いていました。後日分かったことですが、この出張の中で私はサラリーマン人生の中で最も重要な仕事をしていました。人生の節目節目でこの曲に出会うのではないか。そんな運命的なものを感じます。

 余談ですが、南沙織の歌に「いつもレクイエムをあの部屋で聞かされたのね」という語句があります。彼女あるいはこの作詞家にとってレクイエムは、「聞く」ものではなく「聞かさせる」ものだったのです。音楽の趣味は強制はできないし、わかってもらえないことはわかってもらえないという教訓です。

(下の写真はネットから採取したマインツの教会とその内部です。)          マインツの旅~ドイツ三大大聖堂とシャガールのステンドグラスに会いに~ | TABIZINE~人生に旅心を~ 

第2位 ベートーベン作曲 第九交響曲

 これはフルトヴェングラー指揮 バイロイト祝祭オーケストラの録音に特定されます。第2次大戦終了後 最初のバイロイト音楽祭の前夜祭(1951年)のライブ録音です。この歴史の凄まじい重みには他のどの演奏も勝てません。聴衆に風邪を引いた人がいてしょっちゅう咳をしているとか、ホルンが肝心なところでトチるとか、最後のところのテンポが速すぎて演奏者がついてこられなくてバラバラになるとか、そんなことはどうでもいい。これは大戦で荒廃したドイツに響き渡る喜びの歌なのです。

 ベルリンのカイザーウイルヘルム教会 戦災でかろうじて全壊を免れた教会 モニュメントになっている

 録音ではありませんが、朝比奈隆指揮 読売日響のコンサートも良かったです。第3楽章で泣いていた人は私だけではありませんでした。

 泣ける音楽はこの2曲くらいです。後は好きな音楽のランキングです。

第3位 ザ・ブルーハーツの楽曲

 ブルーハーツを知ったのは50歳を過ぎてからでした。若い頃を思い出して、精神が不安定になりました。「生まれたからには生きてやる」(ろくでなし)、「俺たち人類は...バカ!!」(皆殺しのメロディ)、「運転手さんこのバスに僕を乗っけてくれないか。行先はどこでもいい。」(青空)精神病の治療の第1歩は、まず自分の精神が病んでいることを自覚することだそうです。その意味でブルーハーツはおすすめです。

第4位 Straycat Blues ローリングストーン

 中学時代の級友にローリングストーンズが好きだというマセガキがいて、レコードを借りて聞いたことがあります。「Beggar's Banquet」(乞食の晩餐)でした。しかし、雑音にしか聞こえません。メロディーらしきメロディーがない。その中でもストレイキャット ブルースは極め付きの雑音です。ところが、その夜に夢というか悪夢を見てその中でミックジャガーがシャウトしていました。それ以来、この雑音が音楽として聞こえるようになりました。

第5位 ベートーベン ピアノソナタ第31番

 ベートーベンのピアノソナタの最後から2番目の曲です。ベートーベンの数ある曲の中で、私はこの曲が一番好きです。第2楽章の「嘆きの歌」が第3楽章のフーガの間に再び出てくるところなど、ピアニストとしての才覚が試されているので演奏しがいのある曲ではないかと思います。

第6位 誰も寝てはならぬ プッチーニ作曲 オペラ トゥーランドットより

 オペラのアリアとしては、おそらくもっとも有名な曲だと思います。フィギュアスケートの曲として使われることが多いので誰でもメロディーを知っていると思います。ところが短くてすぐ終わってしまいます。CDなので(⇐)ボタンを押して何回も聞いていました。気がつくと歌手や演奏が異なる5種類ほどのCDを持っていました。

 この曲が原因でオペラに興味を持ってCDを集め始めましたが、ベルディやドビュッシーを聞いてもあまりぱっとしない。私はオペラが好きなのではなくてプッチーニが好きなのでした。

 

  以下の3曲は音の結晶のような音楽です。音符を一つも動かすことが許されない。堅苦しいと思う人がいるかもしれません。

第7位 モーツァルト作曲 Eine kleine Nachtmusik

 カタカナで書くと長くなるので原語のドイツ語で書きました。直訳すると小夜曲です。まさに音の結晶です。

第8位 バッハ作曲 平均律クラヴィア曲集

 短い曲の集まりですが、一つ一つの曲の内容がすごい。2~3曲聞くともうお腹いっぱいです。リヒテルがピアノで弾いた名盤がお勧めです。ザルツブルグのクレスハイム宮殿にピアノを持ち込んで自分自身に聞かせるようにじっくり弾いています。よく聞くと窓辺の鳥の声がかすかに入っています。

 ところで調べたらリヒテルオデッサ生まれのウクライナ人でした。

第9位 バッハ作曲 ゴールドベルグ変奏曲

 グレングールドの名盤が2枚あります。彼のデビュー盤と亡くなる直前の演奏です。演奏の素晴らしさもありますが、一人のピアニストの人生の縮図がここにあると思うと胸が熱くなります。音楽だけで評価すべきだと思われる方もおられると思いますが、知ってしまった以上、その思いを遮断するのは不可能です。

 

 他にも好きな曲はいっぱいあります。しかし、きりが無いのでこの辺でやめときます。

 

 

 

 

般若心経/哲学と宗教の間 後編

般若心経は短いお経です。もう少しご辛抱ください。

無無明 (むむみょう ) 亦無無明尽 (やくむむみょうじん )

(空の中には)無明は無く、無明が尽きることも無い

乃至無老死 (ないしむろうし ) 亦無老死尽 (やくろうしじん )

(空の中には)老死は無く、老死が尽きることも無い

無苦集滅道 (むくしゅうめつどう )

(空の中には)苦集滅道(四聖諦 ししょうたい)も無い

 

 無明とは「ミャウ【無明】〘名〙 (avidyā の訳語) 仏語。存在の根底にある根本的な無知をいう。真理にくらい無知のことで、最も根本的な煩悩。生老病死などの一切の苦をもたらす根源として、十二因縁では第一に数える。」だそうです。般若心経は無明も「無」だと言っています。無知が無いのであれば、知識を持っていることも意味が無いと言いたいのでしょうか。さらに無明が尽きることは無いとも言っています。人間はどこまで行っても無知なのでしょう。老死は無いが、老死は尽きない。論理的には大矛盾ですが、気持ちでわかることにして次に行きます。

 苦集滅道も無い。私はここは大問題だと思っています。般若心経とか法華経など大乗仏典は仏陀の死後 千年くらいの間に編纂されています。果たしてこの内容は仏陀が考えたことだったのでしょうか?千年の間に何か変化したのではないでしょうか。仏陀が実際に発したと思われる言葉はとてもシンプルで当たり前のことです。その中に四諦・八正道があります。

 四聖諦の4つの真理とは、苦しみの原因と結果、幸せの原因と結果の4つの真理。仏教は、「すべての結果には必ず原因がある」という因果の道理を根幹として説かれている。従って、人生にやってくる色々の苦しみにも原因がある。そして、幸せになるにも、その原因がある。その4つの真理が、

「苦諦(くたい)」………「人生は苦なり」という真理

「集諦(じゅうたい)」…苦しみの原因を明かされた真理

「滅諦(めったい)」……真の幸福を明かされた真理

「道諦(どうたい)」……真の幸福になる道を明かされた真理の4つ。

頭文字をとって「苦集滅道(くじゅうめつどう)」ともいわれる。

さらに仏陀は苦を滅するため「八正道(はっしょうどう)」という8つの実践方法を説いています。

1、  正見(しょうけん)…正しい見解、正しい信仰  世の中、人生において正しい智慧と見解を備えること。

2、  正思惟(しょうしゆい)…正しい考え方、正しい決意・意志  善悪を正しく見極めれる力。きちんと頭で整理し正しい決断をする事。

3、  正語(しょうご)…正しい言語行為  美しい言葉を使う事です。嘘をついたり、悪口をいわない。

4、  正業(しょうごう)…正しい行い 正しい行動をすること。例えば、立ち居振る舞い、社会奉仕など

5、  正命(しょうみょう)…正しい生活方法 規則正しく生活すること。暴飲暴食は避け健康に気をつけること。

6、  正精進(しょうしょうじん)…正しい努力 今まで起こっていない悪は絶対に起こさないように努力する すでに起こっている悪はこれをなくすように努力する 今まで起こっていない善はこれを起こすように努力する すでに起こっている善はこれを更に増大させるように努力する

7、  正念(しょうねん)…正しい意識、正しい注意 正しい考えの元、常に自分を見失うことなく周りに振り回されることのないように常に意識すること。

8、  正定(しょうじょう)…正しい精神統一 正しく坐禅を組み、身体と呼吸と心を落ち着かせることが大切。  

 四諦は苦しみの根源です。八正道がそれらを解決するとされますが、当たり前のことばかりです。モーゼの十戒を連想しますが、十戒の1番目には他の神を敬ってはならないとの強烈なしばりがあります。それに比べれば八正道は誰にでも受け入れられる内容です。

 私は仏陀はこのように当たり前のことを当たり前に説いた人だったのではないかと思っています。しかし、これでは神秘性=有難味が無いので後年の人がいろいろ付け加えたのではないか。仏陀自身も神秘性への入り口を自らの言葉の中に仕掛けておいた。それが五蘊・六根・六境・六識のそれぞれ最後の1字ではなかったか。二千年前のミステリーです。

 そのような仏陀の教えを般若心経は「無」と言ってしまいます。上記の翻訳では「空の中では」と注釈を入れていますが、これは翻訳者による苦心の妥協だと思います。最初に「般若心経は異端のお経ではないか」との私の疑問の根拠はここにあります。

 我が家の菩提寺では三回忌や施餓鬼の法要で住職は般若心経を最初に読み始めます。後で住職は個人への供養を行ったと説明しました。文言を見る限り般若心経には故人への供養の要素は無いと思います。しかし、前後の脈略を無視して読むと、死後の世界を表現していると思えるような気もします。感覚もなく、目に見える世界もなく、きれいでも汚くもない世界です。さらに無明が無く、老死も無く、苦集滅道も無いとなると、これは宇宙の終わりを意味しているのかもしれない。これはこのお経を読んでいて行の間からふと見えた幻想です。

無智亦無得 (むちやくむとく) 以無所得故 (いむしょとくこ)

 智では無く、得られるものでは無い。得られるものでは無いが故に(考えても分からない、得ようとしても得られない)

 この言葉で前半部が終わります。私は前半部を理屈で考えようとしましたが、理屈をこねても無駄ですよと言われてしまいました。

 

 後半部は祈りと呪文の部です。理屈をこねるのはやめてご紹介だけします。

菩提薩埵 (ぼだいさった ) 般若波羅蜜多故 (えはんにゃはらみったこ )

菩提薩埵は般若波羅蜜多により、その力により

心無罣礙 (しんむけい ) 無罣礙故 (むけいげこ )

心にくもりやわだかまりが無く、くもりやわだかまりが無いが故に

無有恐怖 (むうくふ ) 遠離一切顛倒夢想 (おんりいっさいてんどうむそう ) 究竟涅槃 (くきょうねはん )

恐怖が無く、誤った考えから離れることができ、涅槃の境地に至る。

三世諸仏 (さんぜしょぶつ ) 般若波羅蜜多故 (えはんにゃはらみったこ )

三世の仏たちは般若波羅蜜多を実践することにより、

得阿耨多羅三藐三菩提 (とくあのたらさんみゃくさんぼだい )

阿耨多羅三藐三菩提の境地に達する。

故知 般若波羅蜜多 (こちはんにゃはらみった )

従って今知るべきである。般若波羅蜜多とは

是大神呪 (ぜだいじんしゅ ) 是大明呪 (ぜだいみょうしゅ ) 是無上呪 (ぜむじょうしゅ ) 是無等等呪 (ぜむとうどうしゅ )

大いに神秘的で、この上なく偉大で、比べるものが無い 呪文であることを

能除一切苦 (のうじょいっさいく ) 真実不虚 (しんじつふこ )

一切の苦を取り除き、真実である。

故説般若波羅蜜多呪 (こせつはんにゃはらみったしゅ ) 即説呪曰 (そくせつしゅわつ )

般若波羅蜜多の呪文を示そう

羯諦羯諦 (ぎゃていぎゃてい ) 波羅羯諦 (はらぎゃてい ) 波羅僧羯諦 (はらそうぎゃてい ) 菩提薩婆訶 (ぼじそわか )

般若心経 はんにゃしんぎょう

 

 この中で注目しているのは「般若」の知恵を悟れば、心にくもり(罣礙 けいげ)が無くなり、恐怖や誤った考えから離れることができるとの部分です。

 般若心経に書いてないことは神様や天国ばかりではありません。人助けとか世界平和とか一切記述が無く、言わば自分のことばかりです。そんな「悟り」に何の意味があるのかと言う人もいるかもしれません。

 下の写真は法隆寺五重塔の中にある涅槃図塑像です。仏陀の死に際して高弟たちが泣き叫んでいます。彼らは「悟り」を開いていたはずではないのでしょうか?

法隆寺五重塔 北面・涅槃像土 法隆寺の泣き仏 : tableau_in_mind Ⅲ

 悟りを開いていても喜怒哀楽はある。苦しみもある。罣礙​(けいげ)(思い込みから生まれるこだわり)が無いだけなので、より純粋に苦しみ、悲しみを受け取ることになるのかもしれません。

  最後に般若心経の最初の2行に出てきた強烈な一言 度一切苦厄 (一切の苦しみから解放された)についての私なりに考察してみます。人間にとって最も悲しいこと、最も苦しいことは、生きていく意欲をなくすことだと思います。少なくとも我々の世界が「空」であり、我々自身も「空」であるならば、生きることをやめる理由もありません。一切の苦しみからの解放は、私の理解力・想像力を越えてイメージすることすらできませんが、少なくとも最大の苦しみからの解放はおぼろげながらわかるような気がします。

 般若というのは「最上の知恵」であると共に「人間存在の真理」とも訳せると思います。このお経は真理を悟れば「阿耨多羅三藐三菩提」つまり悟りの境地に至ることができると説きます。これはとても楽観的かもしれません。真理はいつも素晴らしいことなのでしょうか?真理が良いことであると信じて修行せよとこのお経は言っています。そのあたりが般若心経は哲学ではなく宗教であるということなのでしょう。

 般若心経を考えながら、心の旅をしてきました。般若心経が言う涅槃とか阿耨多羅三藐三菩提はゴールではなさそうです。この旅を終えて我々はまた毎日の生活、そして課題に向き合うのだと思います。追い詰められた時のために呪文だけは覚えておきます。

羯諦羯諦  波羅羯諦  波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 

(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい ぼじそわか)